アダムの死は人々を感動させた天草初の殉教者アダム荒川殉教之地(苓北町)
苓北町富岡城のたもと(二の丸駐車場付近)にアダム荒川の殉教之碑がひっそりと建っています。天草初の殉教者であるアダム荒川とはどういった人物で、どのようないきさつで殉教していったのであろうか...
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

より大きな地図で 天草四郎 を表示


アダム荒川は1552年頃の生まれで、キリシタン大名有馬晴信の領地であった島原半島南有馬の荒川(現吉川)の出身。
彼が天草志岐へ来たのは、志岐にセミナリヨ(神学校)ができた1591年頃で、彼は教会で看坊(神父の助手)として教会を守っていました。
ところが、1614年徳川家康の禁教令が下ると、天草富岡の領主である肥前唐津の城主寺沢広高は「全員のキリシタンの信仰を捨てさせよ」と富岡城代川村四郎衛門に命令、それに従い上津浦南蛮寺のマルコス・フェラロ神父と志岐教会のガルシヤ・ガルセス神父を追放しました。そのころガルシア・ガルセス神父に代わり教会を守っていたアダム荒川は「神様に背をむけと言われるのか。たとえ将軍さまのご法度であろうと、どんな責め苦を受けようと神・キリストに背くことはできない」と信仰を捨てず、守り通す態度をとり続けた。そこで、唐津藩では富岡に使いを立て、アダムの首を切れと命じた。殉教の日は1614年6月5日であった。この日の荒川は、人を驚かせるほどの喜びようで「あなた方も早くキリシタンにおなりなされ」と言って、役人に福音の道を導く愛情の表現をした。荒川の死は人々を感動させ、棄教したキリシタンも信仰を取り戻すことになった。刑は、富岡城下の海岸で実行されたと、当時の神父たちが書き残した記録から、この附近で処刑されたと推測されます。
アダム荒川は現在、本拠地バチカンのローマカトリック教会において、(天草では唯一)殉教者名簿に登載されている。



上の絵は中田秀和作 「アダム荒川処刑図」 (天草市立天草切支丹館所蔵)
以前紹介した天草市本渡のキリシタン墓地にもアダム荒川の碑があります。
名もなき信者が眠る、キリシタン墓地

この記事に関する広告
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: アダムの死は人々を感動させた天草初の殉教者アダム荒川殉教之地(苓北町)
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://amakusa46.com/mt/mt-tb.cgi/51
コメントする
SiteName:天草転生†天草四郎
URL:http://amakusa46.com/
Operation-Site
http://3goku4.com/
http://1000goku.com/
Copyright (C) Amakusa46.com
All rights reserved.
当サイトに掲載している
Amakusa46.com独自の
ロゴ・イラスト・画像などの
商用目的での利用は禁止します。
使用される場合やお問い合わせは
メールでご連絡くださいtokisada@amakusa46.com
当サイトは特定の宗教法人や
思想団体などとは
一切関係ありません
Shiro Amakusa
このカテゴリーに関する記事一覧